2011年4月30日土曜日

一体、何やったんやろ?

昨年読んだ本で、
一番面白かった、いや衝撃的だったのは




ロベルト・ボラーニョの『野生の探偵たち

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こういう本は安易な感想・まとめ・書評なんてさせてくれない。
一言で言えば


「全ての根無し草のために」

かな。




メキシコの1920年代に起こった前衛芸術のムーブメント
エストリデンティスモ”(絶叫主義、過激主義とも)に参加した
女流詩人セサレア・ティナヘーロを追い求める20世紀後半の若者二人。
その遍歴。流浪、芸術談義、恋愛、バカ話。



主人公たちの阿呆で真摯な生き様が良いんだな。

舞台や語り手は次々と入れ替わり、
凝縮された短編映像は途切れ途切れのロードムービー。

語り手の饒舌、表現の豊かさ。

自分の10代後半~20代半ばくらいの生活を少し思い出す。
まぁ僕の場合は、ただのアホな生活だけで真摯さなんてカケラもなかったけどね。





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写真家であり、政治活動家であったティナ・モドッティ(Tina Modotti、そのパートナーの写真家エドワード・ウェストン(Edward Weston)1920年代のメキシコでエストリデンィスモの芸術家達と遭遇。




「自分」をさす言葉というのは無限に存在する。
私はサラリーマン。と一先ずは言えるけど、職業だけが自分をさす言葉ではない。



言い換え、他の表現、自分の枠組みを揺るがす表現。

ナニをどう呼ぶかは、今まで、出会ってきた人やモノ、事件との関係。

これから何に出会うか。
関係が変わったり、増えたり。
呼び方も、捉え方も変化する。



放浪、想像が出来ることの、表現の数。




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モドッティ達と親交のあった、メキシコ人ミゲル・コバルビアス(Miguel Covarrubias
彼は、イラストレーターとして初期ブルースやジャズエイジの挿絵、ファッション誌の表紙の絵を描いていたり、バリ島を調査して文化人類学者と呼ばれていたり、歴史家、画家など、一つの呼び方ではおさまらない。バリ島で案内役となったのは前回のブログで書いたヴォルター・シュピース。右はコバルビアス作の1932年2月号「Vanity Fair」の表紙。





「野生の探偵たち」は詩人と詩を追っかけて各国を遍歴する。



詩は、言葉を与えることで、
与えられた事物・事象たちを日常の世界から、その取り決めから解放する。
試みに、今目の前のあるモノをいつもと違う言葉で呼んでみる。
それを続けていくと、目の前にあるモノが違う様相を帯びていく。





















アフリカ系アメリカ人で詩人・作家ラングストン・ヒューズ(Langston Hughesも若き日にアメリカでの人種差別を逃れ、キューバ、メキシコを旅した。1925年の処女詩集『The Weary Blues (邦訳:ものういブルース)』のイラストもコバルビアス。NYのハーレムにて1920年代に、多くの黒人作家、詩人、画家、ジャズ・ミュージシャンが活躍。ハーレム・ルネッサンスと呼ばれる時代にヒューズやコバルビアスは生きた。



Charleston (Runnin' Wild Medley)  





ハーレム・ルネッサンス期、初期JAZZピアノの巨人、ジェームス・P・ジョンソン(James・P・Johnson)。セロニアス・モンクも彼の家の近くで育ち、憧れていたとか。




移動を続ける人は、自分では気づかないうちに多くの顔をもつに至る。
いつだって自分の顔は一つだけど、自分をさす言葉、世界を語る言葉が増えてしまう。


ある詩を説明して、といわれても不可能だ。詩は読まれる度によって意味を変える。
いつだって詩は一つだけど、詩を語る言葉が増えてしまう。



「野生の探偵たち」は詩人を追っかけ、詩を追っかける。
そうこうしているうちに、世界を組み換えてしまう表現の謎を追っかけている。
ような気がした。








ちょっと思い出したけど、
甲本ヒロトは「わけのわからないものになってしまいたい」
と昔TVで喋ってたな。






わけのわからないもの。







「一体なんやったんだろう? わけわからんな」